2012年04月13日
「御生山(みあれやま)」から下鴨神社へ
御生山(みあれやま)の登山道を下ってくると左側に御蔭(みかげ)神社が見えてくる。そのまま下ると鳥居の所で突き当たる。右に行けば、元きた道、叡山電鉄八瀬駅へ。
左に行けば、御蔭祭の「行粧(ぎょうそう)」の道として祭の名を負う「御蔭通(みかげどおり)」を経て、本宮、下鴨神社(賀茂御祖神社)に至る。途中、行粧が立ち寄る「賀茂波爾(かもはに)神社」、通称「赤の宮」にも行ってみよう。
御生山で生まれた「荒御霊(あらみたま)」が神馬に乗って下鴨神社に至る途路をたどることで、東山三十六峰の第二峰、御生山に登った意味が完結すると考えるからである。
左に曲がり、細い地道を数十メートルゆくと周りがぱっと明るくなって住宅地の舗装路にでる。この辺りには叡山電鉄三宅八幡駅付近に開けた住宅地が広がっている。
すぐに小さな川(梅谷川)があり、掛かる橋の名は「御蔭山橋」。御生山をさして、古からこの土地に住む人は「御生山」、最近の住人は「御蔭山」と呼ぶという(※1)。近辺に「御生山」の文字を見ないので、今は「御蔭山」という名で定着しているのであろう。
※1「東山三十六峰を歩く~面白の花の都や」 京都新聞社編 三浦隆夫
この地には、高野川を挟んで北側に「崇道神社」、「三宅八幡宮」と古くから由緒ある神社が鎮座している。
崇道神社は崇道天皇(横死した早良親王)鎮魂の社。三宅八幡は遣隋使、小野妹子いわれの神社である。崇道神社の境内に小野妹子の子、毛人(えみし)之墓がある。この墓は単なる伝承ではなく、「国宝 金銅小野毛人墓誌」が発見され、ここがその墓と確定されている。京都が都になる前の時代の遺跡で由来がわかる数少ないももの一つだ。
もともと小野氏は大津を地盤とする豪族であったので、丁度、比叡山を越えたところの上高野に住んでいたとしても不思議はない。上高野の氏神は崇道神社に合祀された、伊多太祭神伊多太大神(出雲系)である。
では、なぜその近くに鴨氏(渡来系)の荒御霊がうまれるとする御蔭神社があるのか。
もともと鴨氏は大和鴨氏(葛城山麓)が木津川(加茂)、さらに賀茂川、高野川北上して、その地域に定着した一族である。その一族がその川の先に、「水」に囲まれる「磐座(いわくら)」のある山を発見し、そこを荒御霊のうまれる神地とした。それが御生山である。
またまた、横道にそれたが、猿の守護神で有名な「赤山禅院」を経て、一乗寺道を南に。宮本武蔵、決闘の地として有名な「一乗寺下り松」はその途中にある。白川通にでて、さらに南に行くと北白川別当町の交差点。ここから「御蔭通」に入る。現在の御蔭通はもう少し東、乗願院から始まり、下鴨神社の西側、下鴨本通までの全長約二・四キロとされている。
北白川別当町の交差点を西に向かう。東にゆけば、志賀越道を比叡山、そして大津に至る、通称「山中越」である。白川通を越えて行くと左側に京都大学のグランドが見え、美しい槐(えんじゅ)の並木が続く。東大路に至って少し寄り道。そのまま北に東大路を進んで、高野を越え、八瀬街道沿いに下鴨神社の第四境外摂社「賀茂波爾(かもはに)神社」、通称「赤の宮」がある。
現在の「御蔭祭」の行粧は一旦、ここに立ち寄ってから下鴨神社に向かう。
さて、御蔭通に戻って、高野川を越える。掛かる橋は「御蔭橋」。石造りに青銅の擬宝珠をかぶる、堂々たる欄干である。
渡れば「糺の森」の高い樹影が見えてくる。少し行くとすでに下鴨神社の社頭。
鳥居をくぐって長い参道を進む。参道の西(左)側は「流鏑馬神事」が行われる馬場、東(右)側は太古からの自然が残るといわれる「糺の森」の巨木が続く。その中を流れる「瀬見の小川」。
参道の中ほどより少し、行った所がやや広くなっている。ここが御蔭祭の「切芝遷立の儀」が行われる場所である(最初、若い宮司さんに聞くと、場所をご存知でなかったのには驚いた)。神事の1つとして「東游(あづまあそび)」という優雅な舞が奉納される。
そのまま進めば楼門、そして本殿へ。御生山で新たに生まれた荒御霊(あらみたま)が神馬に乗って本宮に到着し、その新しい御霊の力をいただいて、本宮の神々は再生するのである。
これまで交通事情などにより、ほとんどが車での移動だった、御生山から本宮までの「行粧」が、歩いて行う本来の形の戻される、と先日報道された。少し先にはなるだろが、楽しみなことだ。
次回登る峰は、第十二峰「紅萌ゆる、吉田山」である。