遊民悠民(ゆうみんゆうみん)

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ありとあらゆる情報が溢れるいま、役に立つ情報が見つけにくい。
20代から60代までの「遊民悠民」メンバーが、「遊ぶ」「暮らす」「食べる」をテーマに
さまざまなモノを比較し、レポートしていきます。

あそぶ

荒御魂の生まれる山 御生山(みあれやま) その一

今回登るのは東山三十六峰の第二峰、「御生山(みあれやま)」

京都市左京区上高野東山にある。

第一峰「比叡山」の南麓、京都側から登る八瀬ケーブル駅の裏手に位置し、京都市中からはかなり距離がある。標高はわずか二百三十四メートル。前回の大文字山の半分しかない。出町柳から出る京福電鉄の三宅八幡駅あたりから見ると、比叡山の手前に見える小さな山だ。

後ろの峰が比叡山、その手前,の小峰が御生山

しかし、この小山はその標高からは計り知れない歴史の重なりを持ち、日本の祭祀儀礼について語る時、山麓で行われる神事を外しては語れない。だからこそ、京都市内から見えない、小さな山が三十六峰の一つとして選ばれたのであろう。

この山はいろいろな名で呼ばれてきた。主に「御生山(みあれやま)」と「御蔭山(みかげやま)」、その他「二葉山」「高野山」「御形山」などともよばれることもあったという※。本宮のあたる下鴨神社では「御蔭山(みかげやま)」と呼んでいる(公式HPより)。

※ 『都名所図』安永九年(一七八〇)の「御蔭社」では「御生山(みあれやま)」の表記、『拾遺都名所図会』天明七年(一七八七)では「御蔭山(みかげやま)」であるが本文には「高野村の東にあり(中略)みあれ山は高野の方にあり、御影山と同所といへり」とある。私は後述する「御蔭神社」で行われている「御生(みあれ)の神事」に敬意を評して「御生山(みあれやま)」と呼びたい。

山の名の由来「御蔭(みかげ)」、「御生(みあれ)」は古来、その山麓にある「御蔭神社」の神地で行われてきた御生神事(みあれしんじ)に由来する。これこそ、京都でも最も古い神事の一つとされている。

拾遺都名所図会に記されている「御蔭神社」、御生神事(みあれしんじ)の後、下鴨神社への行粧(ぎょうそう)の様子を写している。日文研データベースより。図をクリックすると拡大します

御蔭神社は世界遺産「下鴨神社」、正式の名は「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」の境外摂社である。御蔭神社の鳥居の横に下鴨神社による御蔭神社の説明がある。そのまま掲載する(一部よみがなは筆者が加えた)。

御蔭神社

この社地は、太古鴨の大神が降臨された所と伝えられているところから御生山(みあれやま)と呼ばれており、東山三十六峰第二番目の山である。
さらにまた、太陽のただ射すところ、即ち、御蔭山とも呼ばれそれに因んので社名となった。
御祭神は、御本宮賀茂御祖神社の御祭神の玉依媛命(たまよりひめのみこと)、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、二柱の荒魂(あらみたま)を奉祀されている。
現在の社殿は、元禄六年(一六九三)、御本宮式年遷宮の際に造替された。
それまでは、現在の本殿北東の麓に鎮座されてきたが、地震等の災害に依って殿舎が埋没したため現在の地に御動座になった。
天武天皇六年(六七七)、山背国司が造営したと伝えられる賀茂神宮は、当神社であろうとの説がある通りこの地は古代から北部豪族の祭祀の中心地であり、近隣には数々の遺跡が存在する。
毎年、賀茂祭(葵祭)に先だって五月十二日には、御蔭祭(御生神事)が当神社で行われる。当日は、神馬に錦蓋を飾り、神鈴を付け、鉾、太刀、弓、盾などのご神宝を捧げ持ち、社殿には阿礼(あれ)を掛ける。
数多くの供奉者は葵桂をかざし、本宮を進発した行粧(ぎょうそう)は、この社に致着する。社前において、午の刻、御神霊は神馬に移御になり、御本宮に遷御になる。途中、総社における路次祭、御本宮切芝の神事等が行われる。
朝廷からは、阿礼料や幣が奉献されるなど鴨社創祀の祭とされてきた。
また、神馬の御神前で行われる三台塩(三代詠)を中心とする神事芸能は、わが国最古の祭儀式を伝えるものとされ、行粧もまた最古の神事列と伝えられており、葵祭と並らぶ優雅な行粧として名高く、室町時代に入ると数々の史料に登場する。
現今、道中は交通繁雑のため、やむなく自動車列となったが、当神社、並びに御本宮糺の森での神事は、古儀に依って厳粛に行われている。

賀茂御祖神社

「みあれ」とは、御荒・御顕・御生・産霊ということであり、全ての生命の根源である「生」を生む力、生命を生み出す力の不思議さに超自然的な威力を「あれ」と鴨の氏人や祝(ほふり)たちは称している。

また、『「三天之秘事」(たかまのはらのかみのこと)という口伝書には「天御中主人尊 あめのみなかのみこと」「高皇産霊尊 たかみみすびのみこと」「神皇産霊尊 かみむすびのみこと」「八咫烏之伝 やたのからすのつたえ」を収載し、それぞれの神の働きを讃え、太陽が沈みまた昇るように自然は規則正しく繰り返す。万物の盛衰も同じように永遠に繰り返す。常に生成を繰り返す。その働きを「気 け」という。それが神霊の現れである。その神霊を感得することを「神結 かんむすび」といい、「産霊 みあれ」と呼んでいる。そのために神事をおこない、祭りを繰り返し、千万の祈りをすることだと述べている。』-新木直人(「蘇る古代祭祀の風光」糺の森財団 淡交社)

確かに日本の神は常に生まれ変わるものであり、毎年、御生(みあれ)されるのである。御生山で生まれた神は「荒ぶる魂」であり、それに対して本宮の神は「和らぎの魂」といわれているのも、できたてはフレッシュだけれども、角があり、歳を経たものはしだいに穏やかになる、という我々の感覚に沿うものだ。式年遷宮という営みもこれ深く結びついているのではないだろうか。

そのように、毎年、ここで新しい神が生まれ、神馬に乗って本宮(下鴨神社)まで行粧されるのである。下鴨神社の「御生山」、上賀茂神社はその北方に「神山」があり、同じように「御生の神事」が執り行われている。

とまた、前置きが長くなったがそろそろ登ることにしよう。
京都市中からだと、叡山電車 出町柳駅から叡山本線に乗り、終点の「八瀬比叡山口」で降りる。もしくは手前の「三宅八幡」からも歩いて行ける。ただ、「八瀬比叡山口」の方がわかりやすだろう。

これだけの歴史の重みを持つ山だが、最近ではあまり知られていなようだ。八瀬比叡山口駅で駅員の方に「御蔭神社」へ行く道を尋ねてもご存じなかった。「最寄り駅の駅員が知らない…」、ふと不安がよぎる(その後、その不安が的中するのだが)。やむなく、自宅から持参した資料を見ながら、まず御蔭神社を目指す。

駅を出てすぐ、梅谷川にかかる木造りの橋を渡る。豊かな水量だ。水も綺麗で気持ちがいい。橋を渡って川の向こう側に沿った道を進む。宝嶺山荘の前を通り過ぎ、高折病院に突き当たる。そこでまず迷った。
「突き当たりを左に」ということを聞いていたので左に曲がると、両側が竹やぶの如何にもそれらしい坂道が…。片側は多分野猿避けの電流が流れている線と有刺鉄線。事前に調べた資料に「野猿がでるので注意」とあったので、すっかりその気に。

いかにも御蔭神社への参道と思えたが…

坂を登り切った所で道は途切れるが、何やら意味ありげな赤い矢印の小さな立て札。「おおこれや」とばかり道なき道を上ってゆくと、なんと高さ六十センチくらいのお地蔵さんが…。「神社に仏さん?」という疑問が頭をよぎったが、京都で神仏習合は当たり前。さらにゆくとまた次々と「赤い矢印」。でまたお地蔵さん。道は倒木に覆われ、どんどん険しくなってくる。

誘うが如く、次々と

 

60センチ程の小さなお地蔵さまが、何体も。最近、立てられたもののようだ

日が陰ると、当たり一面、妖気の漂うような不気味さ。背筋がすっと寒くなる。地図の距離感なら、もとっくに御蔭神社には着いているはず。この赤い矢印は「冥途への道しるべ?」お地蔵さんはその付添か…。

道はどんどん険しくなり、妖気が漂う

なむさん、一気に引き返す。足元には落ちた杉の小枝が引き止めるように絡みつく。転がるように先ほどの竹林の道にたどり着く。くわばら、くわばら。一旦、駅まで戻り(ここから駅まではあるいて5分くらい)駅前の店で神社への道を訊くがどうも要領を得ない。ただ、もう少し先で左に曲がるといいらしい。鳥居があって、その下に車止めの大きな石があるという。
※後日、地図で確認すると、上記の山道(すでに道ではなかったが)を詰めてゆくと、山上に出ることができそうな気もしてくる。御蔭神社は江戸時代、地震で動座するのだが、この辺りがその旧地だったのかもしれない。

気を取り直して先ほどの道を戻る。左に曲がったところを通り過ぎ、更に山際の狭い道を行く。片側は高折病院の塀が続く。ここでようやく地元に方らしき人に出会う。なんなく「ここをまっすぐ行けば鳥居があります」とのこと。少し歩けば確かに赤い鳥居が。
車止めの石もある。御生山に登る前に神社を見ておこうと参道を登る。

こちらが御蔭神社への参道入口

 

やっとたどり着く。ここから50メートルほど山に入る

全く人気がない。五月十二日の御蔭祭と毎月二日の奉幣以外は訪れる人もあまりなさそうだ。緩い上り坂の参道を行くと左手に石垣があり、石段を登ると神地にでる。簡素だが幽邃な雰囲気が感じられる。古いがよく手入れされた社殿。拝殿の奥に二つの社。玉依媛命、賀茂建角身命が祀られている。拝殿の前は少し広くなっているのは「御生神事(みあれしんじ)」を行うためであろう。

神社拝殿正面。神事のために前庭を広くとってある

 

玉依媛命(たまよりひめのみこと)、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、二柱の荒魂(あらみたま)が祀られたニ棟の祭殿

社殿横に神地についての駒形が。御生神事(みあれしんじ)」について詳しいので写しとる。
(一部よみがなは筆者が加えた)。

御生神事(みあれしんじ)」について述べられた駒形

御蔭の御生神事(みあれしんじ)の神地

当神社は、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)御祭神の荒御魂(あらみたま・御生(みあれ)されたばかりの御神霊のこと。)を祀祭する摂社(せっしゃ)である。毎年、四月午(うま)の日(旧暦)、御生神事が行われていた。起源は、綏靖天皇の御代(BC五八一)に始まるとの所伝がある。平安時代の右大臣、藤原実資の日記「小右記」寛仁二年(一〇一八)十一月二十五日の条りに「鴨皇大御神、天降り給ふ。小野里、大原、御蔭山なり。」とあるところから、古くからこの神地を「御蔭山(みかげやま)」と呼ばれていた。
鎌倉時代の公卿、勘解由小路兼仲の日記「勘仲記(かんちゅうき)」弘安七年(一二八六)四月十二日の条りに午の日の神事、御荒(みあれ)という。社司や氏人が斎(いみ)たすきかえて神歌を唱へながら供奉す。とあり、古代の御生神事の様子を伝えている。その他の史料にも最古の神事として数多の記述をみる。
現在なおかわりなく、五月十二日、午の刻に神事が斉行され、荒御魂を本宮へお迎えされている。また、毎月二日には、社参(しゃさん)と称し奉幣(ほうべい)がおこなわれる。鴨社

駒形の「綏靖(すいぜい)天皇」にはルビが振られていない。これを書いた社家の人は、第一代神武天皇に続く第二代綏靖天皇の読み方を知らない人はいる筈もない、と考えたのであろう。戦前に教育を受けたひとなら、神武、綏靖、安寧、懿徳…と前から二つ目ですから(余談です)。

ただ、御生神事の説明中、「BC= Before Christ」がでて来るのには少々面食らう。確かに私達にはそのほうがわかりやすいけれど。以前なら皇紀八十年、というところであろうが戦後の天皇制へ遠慮がこんなところに出ているのかもしれない、いや日本の神様は度量が広い…(余談二)。

御生の神事

御蔭神社で行われる「御生の神事」の前庭(神事は秘儀で見ることはできない)

行粧

お生まれになったた、荒御魂を下鴨神社に運ぶ行粧の列

なんて考えているうちに午後も二時すぎ。そろそろ登り始めないといけない。でも、二百三十メートルそこそこ、二十分もあれば登って降りて来られるとおもいきやこれが大誤算。

神社を出ると円形の蹲(つくばい)のようなものがおかれている。御生神事の折、「手水(ちょうず)の儀」が行われる場所である。それを見ながら一旦、鳥居のところまで戻り、すぐ西側の参道と平行に走る登山道(と言っても歩きにくい)を登り始める。
「神道は森の宗教である」ことが実感できる。

登山道の厳しさは予想外

神社を左手にみてそこを過ぎたあたりから、一気に急坂に。胸突き八丁というけれど、なかなか頂上につかない。

標高だけで甘く見て、靴は普段の革靴、服も半袖のポロシャツという出で立ち。携帯電話も持たず、それこそ円山公園にある「円山」(これもれっきとした三十六峰の一つ)に登るつもりで来ているだけに足は痛くなる。汗がどっと吹き出して服も濡れて気持ちが悪い。
足下のすぐ横は梅谷川になるのであろう沢への崖が落ち込んでいる。ここで落ちたら、誰も気付かれない…恐怖でちょっと足がすくむ。

先般の台風や大雨で崖が崩れている上、やたら倒木が多い。「引き返そうか」と何度か思うが「ここまで来たのだから」「それにそんなに高くないのだから」と思い直して前に進む。ほとんど視界は開けないが、一カ所、遠く東高野の集落を望むことができる。

北の方に眺望がひらけている

何分ぐらい登っただろうか。時間を測っていなかったのはミスだった。息が上がって少し休もうと思うが、休むようなところもない。じっとしていると例の妖気が漂ってくるような気がして、濡れた服が更に冷たく感じられる。

かつての山城の掘割かもしれない窪みをゆく

後から計算すると三十分くらいは登っただろうか。ようやく山頂に残っていると資料にあった石垣が見えてくる。これが「御蔭山城跡」の一部であろう。高野、岩倉辺りの土豪佐竹氏の本城とされている。山頂の南側には石垣が残っている。

http://ktaku.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-9bbf.html

土豪佐竹氏の本城跡といわれている石垣がしっかり残っていた

ここを登りつめたところにある少し広い場所が頂上である。見晴らしもなく、とくに何も見当たらない。早々にもときた道を引き返す。しかし、この山道だけではこの山を語るに十分ではない。この山道は数キロ南西にある世界遺産「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)=下鴨神社」へ「御蔭通」でつながっている。

以下、第二回続く

村井一角
東山三十六峰 回峰記 -村井一角
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