遊民悠民(ゆうみんゆうみん)

遊民悠民(ゆうみんゆうみん)

ありとあらゆる情報が溢れるいま、役に立つ情報が見つけにくい。
20代から60代までの「遊民悠民」メンバーが、「遊ぶ」「暮らす」「食べる」をテーマに
さまざまなモノを比較し、レポートしていきます。

くらす

母を背負いて三歩あゆめず

たはむれに母を背負いて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず

啄木

若くして逝った啄木。もし、老いたならばどんな歌を詠んだであろうか…

先日、日頃の親不孝の償いに、母を連れて、母の実家へ墓参りに行ってきた。
「お迎えが来る前に、もう一度、お参りがしたい…」と以前からいわれていたので、暑くなる前に、重い腰を上げることに。
「お迎えが来る前に…」は十年前から聞かされているので、今日明日に行く必要はないのだが、さすがにこ数年、衰えが目立つので。

さて、レンターカーを借りて母にところに。すでに手すりがないと歩けないので折畳みの車椅子を積み込み、ポータブルの酸素吸入器の扱いをヘルパーさんに教えてもらい、いよいよ出発。

久しぶりの運転でやや緊張しながらも、無事、母の実家の檀那寺へ。母から先に死んだ父の墓に参りたいとは聞いたことがないなあ、と思いつつ…。

大学時代の友人たちと飲んでいると、女性陣から「どうしても旦那の実家の墓に入りたくないのでどうしたらいいか…」よくそんな話がでる。「大学でお墓を作ってくれたら喜んでそこにはいるのに…。友達もいて楽しそうじゃない」。事業拡大に忙しい大学、まさに「ゆりかごから墓場」まで面倒をみてはどうか。案外、いけると思うのだが(とくに女性に)。

話が横道にそれた。滋賀県彦根市にある寺は譜代三十五万石、井伊家の菩提寺。石田三成が築いた佐和山城の大手門が寺の門として現存する(あかもん)名刹である。

赤く塗られているので通称「あかもん」。寺の門と違う城門の様式である(彦根市HPより)

さて車を止めて、車椅子を引き出してまではいいのだが、どうしても椅子の部分がちゃんと開かない。
日頃の親不孝が白日の元にさらされる。悪戦苦闘の後、なんとか母を載せて、ゆっくりと寺務所へ。母はすっかり元気で、「寺務所はこっちや」などと指図している。
(酸素吸入器も上手く作動せず、ちょっと焦ったが、事なきを得た)

さすがは高齢者のお参りが多い寺だけあって、車椅子のまま、本堂のご本尊の真ん前までゆくことができる。寺のことだから結構段差があるのだが、全て、橋渡しがあり、車椅子が通れるようにしてある。にわか介護者が急な坂をそろりと押して降りようとすると、寺の方から「降りるときは後ろからですよ」と声をかけられた。なるほど、急な坂を押して降りるのは危険。常識なのだろう。

トイレにゆくにも、ギリギリまで車椅子が入れて、あとは全て両側に手すりがついている。トイレで気がついたことなのだが、高速道路のサービスエリアで母親の車椅子を押して「多目的トイレ」に入ろうとすると、先に利用されていて、やむなく一般のトイレに。何の考えもなく、女性用のトイレの入り口まで行ってあとは本人が歩いて入った。なかなか出てこないのでやきもきしたが、私が女性用のトイレに入るわけにはいかない。
これからは母親には申し訳ないが男性用トイレに車椅子を押して、そこで待つほうがいいと気がついた。婆さんが男子用のトイレにいても文句をいう人はいない(なにかと介護は息子より娘がいい)。

さて、本堂のお参りも済ませて、「墓に参りたいけど、車椅子では無理やなあ」と諦めている様子だが、墓地(幸い境内にある)を覗いてみると、ちゃんと車椅子が通れるようになっている。お参りしようと行ってみたが、さて、我が家の墓がどこにあるかわからない。母の朧気な記憶を元に私が墓の間を右往左往するのだが見つからない。ここまで来たのだからと、寺の方に言って教えていただいた。

墓の前までは砂利道で、さすがに車椅子では行けない。そこから拝むことにしたのだが、その時、ふと、頭をかすめたのが冒頭の啄木の歌である。
「しゃないなあ、おぶっていこか」と啄木になったつもりで声をかけると、母も「悪いねえ」、寺の方は「親孝行な息子さんがいて幸せやねえ」といってくれたので、一瞬、我を忘れた。

車椅子を固定して、前にしゃがんで寺の方に母を背負わせていただいて、さあ、「孝行息子が母の軽さ」に涙するべく立とうとすると、腰に激痛が走り、そのまま尻もちをついて我に返った。「共倒れ」である。
母は最近、痩せて40キロもない身体だが、なかなか立てない。寺の方に助けてもらってようやく立ち上がり、よろよろと墓の前に。母が手を合わすのもそうそうに、車椅子に戻り、やっとの思いで座らせた。

母、笑って曰く

たはむれに母を背負いて
そのあまり腰の痛きに
三歩あゆめず

やなあと…

(後日記)帰って調べてみると、啄木は実際には母を背負ってはいなくてフィクションなのだが、歌を作ったのは1908年(明治41年)、彼が22才のとき。母カツは61才。一瞬、啄木の詩の世界に迷い込んだ当方は、息子が還暦目前、母は傘寿も近い年齢である。まさに老々介護で、二十歳過ぎの息子の真似をしてはいけない。これからますます、寿命がのび、古稀の子が白寿の親の面倒を見る、ということも古来稀な話ではなくなる。「共倒れに」にならない準備、工夫、用心が大切であろう。

一角
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