2011年12月09日
京都府と境を接する北摂の山中に隠れキリシタンの里が佇んでいる。北摂とキリシタンとは、一見妙な取り合わせだが、高槻城主だったキリシタン大名、高山右近の領地だったと知れば、なんとなく頷ける。
隠れキリシタンの里と呼ばれるのは、茨木市千提寺、下音羽の二つの集落。大正時代になってやっとその文物が発見されたというから、その信仰の力は賞賛に値する。深秋の短日に急かされるように駆け足で巡った小紀行をお届けする。
家内の運転する車で、自宅のある川西市からまずは、千提寺の茨木市立キリシタン遺物史料館へ。およそ50分の走行時間。千提寺と言っても、その名の寺院があるわけではない。千提寺の「千」はクルスを、「提」はデウスの漢字表記「提宇子」から、「寺」は宗教施設を表す、符牒めいた地名だという説もある。真偽のほどはともかく、いかにも隠れ里にふさわしい。集落の家々は、丘の上に張り付くように散在し、周囲は穏やかな山並みが取り巻いている。
茨木市立キリシタン遺物史料館は、欧風の瀟洒な建物。中は、一室だけの小ぶりなミュージアムであるが、中身は濃い。
たとえば、現在は神戸市立博物館所蔵のザビエル画像。日本人なら誰でも教科書などで一度は見たことがある、この著名な絵が、実はここ、茨木市千提寺で発見されたことははじめて知った。複製であろうとなかろうと関係ない。この地で発見されたということになぜか感動を覚えた。
圧巻なのは、あけずの櫃。屋根裏の鴨居にくくりつけられていたもので、この中にキリシタンの遺物が隠されていたらしい。「代々誰も開けようとしなかったことから、あけずの櫃と呼ばれている。」との説明があった。即物的には朽ちかけた木箱に過ぎないが、来歴を知れば、人間の「念」と歴史の「闇」が見る者に迫ってくる。
天正元年に豊臣秀吉が、キリシタンの布教と信仰を厳禁、さらには慶長18年に徳川家康がキリシタン禁止令を発布。以来三百年以上の長きに渡り、沈黙を守ってきた時間の重さを感じさせる。
家いへにあけずの櫃冬ざるる 無麓
千提寺を離れ、もう一つのキリシタン集落、下音羽に向う。目的地は高雲寺。千提寺から車で10分ほどの行程だ。 高雲寺は、下音羽の交差点近くから急な石段を登ったところにある。
曹洞宗の寺ではあるが、それは表向きのこと。本当は、キリシタン宗徒の集会施設として使われていたという。そのせいか、いわゆる寺院建ではなく、民家や小ぶりの藩校といった風情。
寺裏に回れば、2基のキリシタン墓碑が簡素な小屋組みによって守られている。いずれも、「碑の上部にクルスが刻まれている」らしいが、肉眼では確認できなかった。
左側の大きな墓碑は寺の手水鉢の台石に、右の小さな墓碑は、靴脱ぎ石に使われていたらしい。このようにして徹底的に秘匿されてきたのだ。
やまかひにクルス守りて暮早し 無麓
そろそろ日が傾いてきた。日のあるうちに、高山へ向うことにする。正確には大阪府豊能郡豊能町高山。豊能町役場のある余野へ戻り、国道423号線を南下して、箕面市との境界あたりで左折。九十九折れの急坂をぐいぐい高度を稼いだ上にたどり着いた高原が高山の集落である。
この山上に開けた小集落は二つのことで知られている。ひとつは高山真菜や高山牛蒡といった「なにわの伝統野菜」に指定されている野菜の産地であること、今ひとつは、キリシタン大名高山右近の生誕地であるということ。だが、今回の目的は、高山にある「マリアの墓」を訪れることだ。
マリアの墓は、幹線道路から畦道や岨道めいた小道を5分程度登ったところにひっそりと佇んでいる。当地もキリシタンと関係が深いが、大半の宗徒はキリシタン禁教後に姿を消したという。しかし、2軒の夫婦が信仰を守り続け、やがて転宗したらしい。所伝が正しければ、マリアの墓の主はこの2軒の夫婦と考えられる・・・ 豊能町教育委員会による説明パネルにはそのようにあった。
全部で4基の墓碑のうち3基は肩寄せ合っているが、1基だけポツンと離れている。理由はわからない。地元の人がよくお世話されているらしく、墓碑の周りは手入れが行き届いている。3基の真ん中の墓碑には白いロザリオが懸けれていて、薄暮の暗がりにも美しい。高山の人のやさしさを見るような気がして、心が温かくなる。
隠れキリシタンの里は、いずれも虚実の皮膜をまとったまま、真実はだれにもわからない。ただ、一途に守ろうとしてきた無数の人たちが存在したことは事実であり、それにこそ心引かれる何かがある。マリアの墓からの帰路、初猟の銃音が哀調を帯びて響きわたった。菜畑も青みを増してきた。冬はすぐそこである。
初猟や墓碑にクルスを刻む地の 無麓