遊民悠民(ゆうみんゆうみん)

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ありとあらゆる情報が溢れるいま、役に立つ情報が見つけにくい。
20代から60代までの「遊民悠民」メンバーが、「遊ぶ」「暮らす」「食べる」をテーマに
さまざまなモノを比較し、レポートしていきます。

あそぶ

悠かなり、多田銀銅山。

大阪府と兵庫県の7市町村にまたがる鉱脈を総称して多田銀銅山と呼ぶ。この広大な区域に二千もの坑道が掘られ、今も調査が手つかずのまま残っていると言う。その歴史は奈良時代まで遡り、東大寺の大仏にも多田で採取された銅が使用された、らしい。
時代を一気に下り、天正年間。豊臣秀吉はここを直轄鉱山として開発。天下統一を経済的に支えたのが、この多田銀銅山だとされている。江戸時代には、「銀山三千軒」と呼ばれ、多いに繁栄した。その後次第に衰退していったとは言え、昭和四十八年に日本鉱業多田鉱業所が閉山されるまで、採掘が続けられた。その間の時の流れを思うと驚かずにはいられない。

秀吉に関して言えば、埋蔵金伝説も。「秀頼の行く末を案じた秀吉が、大坂城に残っていた軍用金四億五千万両を多田銀銅山二十一ヶ所の坑道に埋めた」という伝承である。この虚実を確かめに、小型カメラとセンサを積んだ探査ロボットが入ったという報道も耳目に新しい。ロボットが埋蔵金を発見したというニュースは未だ聞かないが、全部見つけると兆円単位の額になるという試算もある。何とも夢のある話ではないか!

兵庫県川辺郡猪名川町銀山。代官所跡や平炉跡、数多くの間歩(※)が残っている。猪名川町では、最近急速に整備のスピードを上げて、貴重な産業遺産の保存に努めている。そのおかげで、坑道の内部まで見学することができる。早春の鬱勃とした空気の中を、駆け足で歩いてみた。

※間歩:まぶ。鉱山の坑道のこと。横穴に限定する場合もある。

能勢電鉄日生中央駅から阪急バスで白金二丁目バス停下車。瀟洒な住宅地を抜けて螺旋階段を銀山川の河畔の車道へ降りる。車道沿いに遡れば銀山に着く。バス停から約二、三十分の歩行距離。「銀山三千軒」とは、夢まぼろし。静まり返った集落だ。

どの家にも実南天が育ち放題にたわわに実っている。「難を転じる」ことから縁起かつぎの植物として知られるが、一攫千金を夢見た山師が植えていたのかと想像をたくましくすれば楽しい。

銀山での見所はいくつもあるが、まず最初に訪れたのは、金山彦神社。祭神の金山彦は文字通り鉱山の神様。同名の神社は各地の鉱山にあるが、銀山の金山彦神社は大同二年(807)年頃の建立伝えられており、おそらく最古の部類に近いのではないか。境内は楚々とした雰囲気で好ましい。

この神社の石段横に平炉跡がある。間歩から採掘した鉱石を砕いて、金属分を取り出すための炉。言わば工場と神社が隣接しているようなもので、現在ならさしづめ、ビルの屋上のお稲荷さんといったところだろうか?

金山彦神社一の鳥居。銀山川の小橋を渡ったところに鎮座する。

 

金山彦神社本殿。大鉱山の守護神としては楚々とした風情。

 

本殿の扁額。「山神宮」とある。

銀山川の左岸に沿って遊歩道が付けられている。わずかな距離で青木間歩に続いている。ここは、銀山で唯一坑道に入れるところだ。手掘りと機械掘りの両方が保存されているが、急坂を登る、手掘り間歩は軟弱にも日和り、機械掘りの中へ入っていく。

従来はここは入ってすぐ行き止まりだったが、その後掘り進んだらしく、数年前より、ずいぶん奥まで入れるようになった。(猪名川町もなかなかやるねえ。)

四つ留、坑木のありようがよく表現されている。中端は照明が行きとどいて歩きやすいが、念のため町では、ヘルメット着用を奨めている。夏場はひんやりしていいだろうと思う。ここ青木間歩が、銀山のハイライトのひとつだ。

青木間歩の入口。

青木間歩の内部。忠実に復元されている。

入口に置かれたヘルメット。無骨なのがかえって好ましい。

代官所跡、明治時代の精錬所跡、水抜き穴跡などを巡っているうちに雨が本降りになってきたので、帰宅を急ぐことにする。川西市のわが家も実は、多田銀銅山の領域にある。自宅の下に巨万の富が眠っていると考えるだけでも楽しい。

山腹に不気味な口を開く水抜き穴。

絵地図から存在が推定されていた代官所跡。発掘の結果遺構が発見された。

絵地図から存在が推定されていた代官所跡。

代官所の門を移築したと伝えられている。
中田無麓
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