2012年01月23日
異人館に代表されるエトランゼの街、神戸のもう一つの顔が移民。「落地生根(らくちせいこん)」の思いを胸に、神戸に移り住まれたのが、華僑の人々。一方で、神戸からはるかブラジルへ新天地を求めて旅立った方々もおられる。
移り来た歴史、移り往った歴史を2つのミュージアムがひっそりと刻んでいる。前者が「神戸華僑歴史博物館」。後者が「神戸市立海外移住と文化の交流センター」だ。
まずは、「神戸華僑歴史博物館」をレポートする。
1868年の神戸開港に伴い、長崎・横浜・広州・上海などから多くの中国の人たちが神戸に渡ってきた。当時の清国とは条約が結ばれていなかったため、彼らは「無条約国民」として扱われ、「籍牌」により管理されたらしい。その後、1871年に「日清修好条規」が締結、1878年には神戸に「清国理事府」(=領事館)が開設されると、神戸定住の人たちがますます増加し、ここに華僑社会が形成された。
華僑の人たちは、西洋商社の雇い人、貿易商、雑貨商、金融などを生業としていた。つまり最初から第3次産業従事者として、神戸に渡ってきたのだ。また、船会社の代理店や為替仲買人など、貿易実務の担い手でもあった。国際港湾都市神戸の発展を支えてきた人たちが華僑なのである。
1900年には早くも神戸華僑同文学校が開校され、地域における子弟教育も始まった。清朝末期、亡命中の孫文の支援にも、神戸華僑は大きな支援を行った。その後、日中戦争、太平洋戦争の苦難の時代を乗り越え、戦後の焦土の中から、地域と共に復興を目指してきた。そして阪神淡路大震災の時には、中華同文学校を避難所として地域に提供したこともまだ記憶に新しい。
彼らの姿勢を示すことばが「落地生根」。「故郷を遠く離れ、その土地の人々や習慣になじみ、子孫に囲まれて円満な家庭を築き、やがてはその土地に根を生やす。」という意味だ。
これに対比することばに「落葉帰根」がある。こちらは「葉が落ちれば根に戻る。つまり、いずれは故郷に帰る」ことを意味し、両者のニュアンスは180度異なる。
異人館街として観光のメッカになっている、トアロード東側の西洋系居留地では、好むと好まざるとにかかわらず、大半が「落葉帰根」のエトランゼに終わった。だが、華僑の人たちは、地域に溶け込み、地域を発展させ、今や地域になくてはならない存在になっている。文字通り「落地生根」の苗に花を咲かせたのである。
一年中観光客が引きも切らない南京町から歩いて数分南へ下った海岸通りに面したところに神戸華僑歴史博物館がある。1979年神戸中華総商会ビルが落成した時に同時に開館した。現在もその2階の1室をミュージアムとして公開している。神戸華僑の方々が自ら運営に当たる世界でも珍しい博物館らしい。
館内に入れば、華僑のコンセプト「落地生根」の額が高々と掲げられている。傍らには孫文の写真と、博愛と大書した揮毫。清末から民初にかけて、多くの大陸人が日本に留学、亡命した。彼らの支援に奔走したのも、神戸華僑であった。館内には、康有為、梁啓超、教科書でもなじみの二人の書が並んで掛けられている。
梁啓超は変法の思想家であるが、華僑子弟のための学校の設立を呼びかけた人物として知られている。それに呼応して翌1900年に設立された神戸華僑同文学校は現在の神戸中華同文学校へと受け継がれ、今では華僑のみならず、日本を含めた十を超える国籍の子弟が学ぶ、インターナショナルスクールとして発展の一途を遂げている。
神戸中華同文学校の教科書も展示品の見どころの一つ。教材に魯迅の「藤野先生」が採り上げられていることなどからも、大陸とのつながりの深さが感じられる。
産業や生業に目を転ずれば、また、知らなかった事実と出会える。たとえば燐寸産業。輸入品として到来したマッチは1880年頃には早くも輸出品に転じた。神戸は国内燐寸製造の一大産地であり、神戸港の貿易品目の中で重要な位置を占めていた。
このマッチの販路拡大に大きく貢献したのが神戸華僑のネットワーク。かれらの手により、上海、香港、広東さらには東南アジアの各地まで、神戸産の安全マッチが普及していった。その意匠は勿論輸出先を意識したものになっていて、アジア的な色彩と意匠は今でも通用するほど新鮮だ。
いま一つ、興味深いのが「三把刀」。つまり、散髪用の刃・鋏、仕立用の鋏、料理用の包丁、華僑が生業としていた理髪業、テーラー、料理人の3つの刃物のことだ。
今では中華料理店の包丁以外廃れてしまったが、たとえば洋服の仕立てでは、本国では「上海テーラー」として名が通っていた。そのため、神戸華僑のテーラーも居留地、後には北野町の西洋人の客を相手にずいぶん繁盛したらしい。
建物の外に出れば「神戸港平和の碑」がひっそりと建っている。2008年建立。つい最近のことだ。アジア太平洋戦争の時代、神戸港港湾荷役や造船の過酷な労働に従事させられ、その過程で犠牲になった、中国・朝鮮人、連合国捕虜の人たちの歴史を顕彰するものだ。港町には光と影が必ずある。
南京町に戻れば、いつにも増してその賑いが眩しく感じられた。