遊民悠民(ゆうみんゆうみん)

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20代から60代までの「遊民悠民」メンバーが、「遊ぶ」「暮らす」「食べる」をテーマに
さまざまなモノを比較し、レポートしていきます。

あそぶ

大文字山に登る(その二)

最初の山は第十一峰「大文字山」

大文字の送り火であまりに有名。京都、といえば祇園祭とともに「京都の夏」を象徴する山である。

銀閣寺交差点手前からみた大文字の送り火(2012年夏)

大文字山は如意ヶ岳の西方の一支峰とする見方もあり、大文字山のことを如意ヶ岳とも呼ぶこともある。大文字の送り火、大文字を含む五山の送り火の話を始めると、それだけでゆうに一冊の本が書けてしまうので紙幅の都合でさらりと「ボケ封じ」程度に。

大文字送り火の始まりは?

五山の送り火の始まりについてははっきりしない、というのが本当のところのようだがいくつかの言い伝えの説がある。
1) 弘法大師が八〇八年にその年の疫病の流行・飢饉を調伏するために如意ヶ岳に人が手を広げた形の大文字法壇を設けて護摩を焚いたのが始まりという説。弘法大師説には他にもある。

2) 足利義政が一四八九年、近江の合戦で死亡した実子・義尚の冥福を祈るために、家臣に命じて始めたという説。大の字形は山の斜面に白布を広げ、その様子を銀閣寺から相国寺の僧、横川景三が眺め定めたという。

3) 江戸時代初期に、近衛信尹(のぶただ)により始まったとする説。 一六六二年(に刊行された書物に、「大文字は三藐院(さんみゃくいん)殿(近衛信尹)の筆画にて」との記述があるとのこと。信尹は本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに寛永の三筆のひとり。

文献では、意外に古い記録が見られない。もっとも古いものとされているのは舟橋秀賢(ふなはしひでかた)の日記『慶長日件録』(けいちょうにっけんろく)の慶長三年(一六〇三)七月十六日に「晩に及び冷泉亭に行く,山々灯を焼く,見物に東河原に出でおわんぬ」とある。「大文字」という名称があらわれるのは、寛文二年(一六六二)まで下がって、中川喜雲(きうん)の『案内者』(あんないしゃ)で「妙・法」「船形」の記載も見られる。もし、平安時代からなら公卿の日記などに現れても良いはず。

戦国時代に盛んに行われた万灯会(まんとうえ)が次第に山腹に点火され,盂蘭盆会(うらぼんえ)の大規模な精霊送りの火となったという説もある。今日、向かい側の第十三峰、紫雲山にある真正極楽寺(真如堂)において、灯篭を「大」の字に並べる「精霊送り灯ろう供養会」が復活されている。

真如堂の精霊送り灯ろう供養会

真如堂(真正極楽寺)で送り火の日に行われる「精霊送り灯ろう供養会」

また、死者を送る葬送の地であった、鳥辺野にある六波羅蜜寺。祖霊を迎え入れるため、毎年八月八-十日に行う萬燈会では、本堂に数多くの「大」が現れる。萬燈会の始まりは応和三年(九六三年)年とのこと。「大」は地、水、火、風の四元素に空を加えて大自然を表した「五大」を意味し、自然への畏敬(いけい)と祖先をうやまう気持ちを象徴しているという。
私はこの辺りが納得の行く初元ではないかという気がするが、ようはわからないのである。京都、というより日本でも最も知られたお盆の一大イベントの歴史がわからないという事自体が大きな「ナゾ」であろう。

神楽岡から見た、大文字山

西側の神楽岡から見た、大文字山。頂上はその奥にありここからは見えない

世界遺産 銀閣寺から登る

前置きはそのくらいにして、そろそろ登ることにしよう。
大文字山は京都の人にとって、とくにその近くに住む人にとっては、とても身近な存在である。山といっても標高は四百六十五メートルにしか過ぎない。ちなみに来年オープンする東京スカイツリー(六百三十四メートル)の第二展望台の高さがほぼ等しい。ハイキングコースとしてもちょうど良く、毎朝登るという元気な高齢者の方も多い。その上、一帯は国有林であり、しかも銀閣寺、法然院といった有名な社寺の裏山ということで古来、大切に保護されてきた。そのため人里近くにありながら、驚くほど自然が豊富である。山菜、きのこ、木の実…、大文字山で採れるものだけで暮らしていたというベジタリアンの方もおられる。その方に案内していただいて「大文字山を食べる」というテーマで登ったこともある。

今回は一番ポピュラーな銀閣寺ルートと呼ばれる、銀閣寺門前を左に曲がって、中尾城跡、千人塚を経由して登ることに。スタート地点ともいえる銀閣寺門前の左隣に「大文字本尊安所 浄土院」という天台宗の小さなお寺がある。日頃は銀閣寺の観光客の喧騒をよそにひっそりとしているが、大文字の送り火の前日と当日の午前中は、ご先祖や亡くなった方の霊を送るために護摩木に願文を認める人々で賑わう。この護摩木を送り火として焚き上げるのである。

護摩木

「先祖代々霊位」とか新盆を迎える物故者の戒名などとかかれた護摩木

今年はこの護摩木でひと騒動、ふた騒動もあった。東日本大震災で被災した陸前高田の松から作った薪を燃やす、燃やさないで二転、三転。いかにも「いけずな京都人らしい」などとマスコミにも取り上げられ、誇り高い京都人が一番いやがる「ぶさいくなこと」になってしまった。

大文字の送り火は本来、お盆に帰って来られたご先祖様の霊をお送りする宗教行事である。京都では、送り火の行事だけが独立しているのではなく、様々な行事が連なっている。ご先祖の墓に参る、迎え鐘を撞く、卒塔婆を流す、送り鐘いて、十六日の夜には送り火へ静かに手を合わせる。五山の送り火は花火大会ではないのである。あまりに安易に「鎮魂」ということばを使いすぎていないだろうか。陸前高田のお精霊さんはやはり、陸前高田の海が見えるところからお送りするべきであろう。

(ここまで第1回 第二部)

村井一角
東山三十六峰 回峰記 -村井一角
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