2011年12月22日
歴史を刻む登山道
寄り道が過ぎた…。ルートに戻ろう。往生院を通り過ぎ、すぐに八神社に突き当たる。そこを右に曲がると一気に勾配も上がり、いよいよ、登山道という雰囲気になる。沢に沿って歩くと森の香りというか木々の清々しい空気が心地よい。
少し、歩いてゆくと左に水場がある。中尾城址から引かれているとのこと。立ち寄って喉を潤したり、ペットボトルに入れて持ち帰るひともいるようだ。中尾城いえば滅亡寸前の室町幕府の将軍義輝(最後の将軍義昭の父)が拠って惨敗したところ。足利義政の築いた銀閣寺のほん裏山に、同じ足利氏の木々に埋もれた廃城跡。そんな歴史の綾を感じながら歩くのも東山回峰ならでは楽しみである。
中尾城址からの水場を過ぎ、小さな砂防ダムに至る。幅の広い道はここまで。沢をかかる橋をわたれば、そこからが本格的な登山道となる。丸太で土留めをした階段や粘土質の地道を何度も折り返す登山道を行く。ちょっときつめのハイキングコースといったところ。
少し息が上がる。この辺りも眺望は殆ど無い。時折、西側に街並みが木々の間から見える程度。そうするうちに明るいちょっとした広場に出る。といってもかなりの傾斜はある。登ってきた道を左にいけば山頂。方角としては北に向かって登っていくことになる。まっすぐ行けば、第十四峰 善気山山頂(法然院の裏山になる)に続く。この場所はちょうど送り火火床の真下付近で、「千人塚」と呼ばれるあたり。千人塚とは第二次世界大戦末期、軍が本土決戦に備え、そこに高射砲を設置のため、地面を掘ったら、おびただしい人骨の入った壺がたくさん出てきた。先の中尾城に拠った足利義輝が三好、松永の軍と戦って破れたときの兵士の遺骨いわれている。そこにはお地蔵さんが祀られてあり、新しい花が供えられていた。
気になったのは広場の周辺の透明なシートがかけられた木材群。
千人塚辺りの森が明るく感じるのは、カシノナガキクイムシという甲虫が持ち込む菌によるナラ枯れの被害木が何本も伐採されているからだ。斬られた木材は山積みにされビニールシートで覆われ、薬剤による燻蒸処理が行われている。
よく見ると感染木には細い爪楊枝が無数に刺さている。これは感染を拡大させないために、虫の開けた穴一つ一つに、金槌で白樺の爪楊枝を打ち込み塞いでいくらしい。その手間と根気は想像を絶する。それでも内部から爪楊枝を食い破って這い出す虫もいるらしい。このため、時にはプラスチック製の爪楊枝で穴を塞ぐということも行われるという。
このナラ枯れにしても松枯れにしても、最も手厚く保護されている東山でさえこの状況である。日本中の森でこのような被害がひろがっているのだろうか。我が家からみても、新緑の季節に赤茶けた木々を容易に見出すことができる。専門家ではないので何が原因かはわからないが、地球温暖化や人間と自然の関わり方の変化があるのかもしれない。
再び、登山道に戻って、頂上を目指す。すれ違う登山者(という感じでもない人が多い)もまちまちだ。毎日登っているという感じで軽々と普段着で降りてくる年配の男性。結構、本格装備の中年女性の集団。友人たちと楽しげに喋りながら駆け下ってくるジャージ姿の少年たち。登る目的がそれぞれ、違っているであろう、それがまた大文字登山の良い所だ。
かなり登ったと感じた頃、リフトのケーブルが頭上を通る。登山道と交差する所が二箇所。そこの下には登山者の保護のためのケージがある。このリフトは砂防ダムのところから火床のところまでをワイヤで結んでいる。いうまでもなく、送り火の薪を山上に上げるためのリフトである。ただ、意外に新しい。一九七二年のことである。それまでは保存会の人たちを中心にみんなで担いであげていた。このリフトの効果は絶大であったろう。薪がこのリフトに載せられて数珠つなぎに?山上を目指す姿をぜひ見てみたいものだ。
さらにもう一回、ぐるっと道が曲がる。折り返すと目の前に石段が現れた。曲がり角の外側は旧道の入り口。石段の幅は1メートルくらいだが段差は結構ある。一段ごとに「よいしょ」という感じ。数えて上がることにする。急で先が見えない。途中で座り込んで息を整えている人もいる。石段の途中でもう一度、リフトのケーブルが頭上を通る。秋に登ったときにはこのゲージの横で大きなアケビの実がなっていた。
運動不足の身にこの石段はかなり辛い。登りながら「帰りもきつそうやなあ」ということが頭をかすめる。全部で百五十段!ようやく登り終えると、ゆるやかな坂。そして石畳。
最後のゆるい階段を上って行くと送り火の薪を保存する倉庫がある。その横を通り抜けると、眺望が一気に広がる。みんなが「おおっ!」という瞬間である。石段がきつかった分だけ、喜びも大きい。
火床は大文字山の頂上より少し下にある(当然だが)。やや北西に向いた急斜面におかれた火床はうえからみると「大」という文字の配置に見えない。
これが本当に「大」という字になるのかと、不思議な石組だ。京都の街中からみて「大」の字に見えるようにするためにどうしたのだろうか。ナスカの地上絵を思い出す。「大」の文字の各画が交わるところの火床を「金尾」という。
この金尾に弘法大師をお祀りした「大師堂」があり、その前がステージのようになっていて、まさに京都の街を一望である。北は岩倉辺りから南は淀、天王山あたりまで見渡せるだろうか。見通しの良い日なら、大阪の高層ビルまで見えるという。
上賀茂、下鴨神社、京都御所、吉田山、平安神宮の朱の大鳥居、さらに南に目を移すと京都タワーや京都駅ビルも見える。京都の建築条例では大文字が見えるかどうかも基準になっている。旧京都ホテルのビル建て替えで大揉めに揉めたのは、洛中からビルで大文字が見えなくなる、ということが問題になったのだ。それほどまでに京都の人は大文字が見えるかどうかを気にかける。だから、逆に言うと大文字からは京都のほとんどが見える、ということになる。この眺望は単に開けているというだけではなく、京都の人たちが守ってきた眺望でもあるのだ。
金尾で大文字の送り火に使った薪の「消し炭」を少しいただく。京都では大きな消し炭は奉書紙に巻いて水引でくくり、玄関先に吊るしておくと災いよけになると言われている。
また、消し炭の粉を飲むと、一年健康でいられるとの言い伝えもある。
これだけ長い間続く宗教行事。さまざま言い伝えが生まれている。有名なところでは消し炭の他に、大文字の送り火を盃や盆の水や酒に映して、それを飲むと息災でいられるなど。
私も昨年の送り火は嵯峨野法輪寺で遠くの大文字を盃に映していただくことができた。
金尾でひと息入れて、眺望を楽しんだら火床の石段を登って行く。幅は七から八十センチくらい。かなり急で足を踏み外したら急な斜面を転がり落ちる恐怖を感じる。落ちた人はいないのだろうか…。大の文字のてっぺんから、さらに林の中へ入ってゆく。頂上を目指すのだ。火床までの登山道に比べると人の往来は少ない。アップダウンのきつい登山道を上って行くと意外に遠い。途中で「道を間違えたのかと」いったん引き返す。のぼり慣れた様子の男性に尋ねると、今来た道で正しいという。また、引き返してようやく、ちょっと広い山頂に着く。
以前は木立に囲まれて眺望はあまりなかったのだが、今回、登ってみると、西南側の木が取り払われて、三十六峰の南側の連なりも一望できる。岡崎あたりから、山科、遠くは樟葉、枚方、そして大阪まで見渡せる。
頂上の標し、三等三角点を写真に収める。東山三十六峰の第一登頂である。
大文字山はお精霊さんを送る山である。穏やかな山容にふさわしく、極楽浄土を願う仏教と縁が深い。次は仏ではなく神のお山に登ろう。しかも「荒ぶる神」。目指すは第二峰「御生山」(みあれやま)である。
(第二回へ続く)
『葵祭の原点、御生山(みあれやま)に登る』 東山三十六峰 回峰記 【その二】
(ここまで第1回 第三部)