遊民悠民(ゆうみんゆうみん)

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ありとあらゆる情報が溢れるいま、役に立つ情報が見つけにくい。
20代から60代までの「遊民悠民」メンバーが、「遊ぶ」「暮らす」「食べる」をテーマに
さまざまなモノを比較し、レポートしていきます。

あそぶ

京のお伊勢さんと疏水 第十九峰 神明山 (その二)

京のお伊勢さんと疏水 第十九峰 神明山 (その一)

前回の南禅寺水路閣の上の遊歩道を流れに逆らって歩いてくると、遊歩道が疏水の洗堰(あらいぜき)に突き当たる。

疏水洗堰

蹴上船溜りから疏水分線に出た所にある、洗堰。分線への流量を調節する

蹴上船溜りジオラマ

大正四年(一九一五)当時の蹴上船溜り(インクライン頂上部)を再現したジオラマ(琵琶湖疏水記念館)クリックすると拡大します

そこに人ひとりが通れる細い鉄橋が2本の巨大な鉄管をまたぐようにかかっている。急角度で落ちる、この鉄管こそ、疏水を利用して日本初の水力発電を行った「蹴上発電所」への導水管だ。

蹴上発電所への導水管

第一疏水と第二疏水の合流点から蹴上発電所への導水管。現在も使われている

水力発電発祥の地

蹴上発電所の構内に立つ、「水力発電事業発祥之地」の碑

現在も疏水を利用して小規模(四五〇〇kW)ながら水力発電を行なっている。

蹴上第一発電所建屋

レンガ造りの「蹴上第一発電所建屋」。窓の上の多くの穴は送電線を通した跡

かなりの高さで、私は足がすくむ。橋を渡った公園には疏水に関した展示物や銅像、碑が秩序なく置かれている。とりあえず置いた、という風情。まず、目につくのが「インクライン」の鉄骨製の舟台とそこに載る木造運搬船。

保存されている、インクラインの舟台と運搬船

保存されている、とは言いがたい、放置状態

「インクライン(傾斜鉄道)」は、運河や山腹など、高低差のある場所で貨物を運搬するための装置である。今では京都の桜の名所としてのほうが有名になってしまったインクラインだが、疏水の一環としてつくられ、この公園の西側に装置全体として保存されている(昭和五十八年、京都市文化財に指定済)。全長は五八七m。蹴上の頂上部から南禅寺船溜りまで三十六mの落差を水力発電の電力を利用した、人や荷物をつんだままの舟を運ぶためのケーブル鉄道であった。

インクラインのジオラマ

インクラインの復元模型。南禅寺船溜りから蹴上を見上げる(琵琶湖疎水記念館)

現在、インクラインの軌道も保存されている。

インクライン

上のジオラマと同じ位置から見上げたインクライン。軌道の幅は船を運ぶためにかなり広い

琵琶湖疏水には二人の立役者がいる。当時の京都府知事、北垣国道(一八三六~一九一六)と、その北垣に見出されて工事を任された土木技術者、田辺朔郎(一八六一~一九四四)である。その田辺の銅像が立っている。

田辺朔郎像

田辺はその後、東大、京大教授を歴任。大阪市地下鉄の建設にも寄与している

明治十六年(一八八三)、京都府御用掛に採用されたとき、田辺はわずか二十一歳。工部大学校の卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」にすでにその構想があったという。新しい国家が築かれるときに活躍するものは皆、早熟である。
明治二十一年(一八八八)にアスペン(Aspen:アメリカ合衆国)で世界初の水力発電が成功すると、田辺は早速視察に訪れている。

琵琶湖疏水記念館に保存、展示されている当時のベルトン水車

琵琶湖疏水工事での水力発電の採用を決めたのも田辺の影響が大きい。そのような事情もあってか、銅像の近くには京都市電気局の「殉職者之碑」が立つ。

京都市電気局の建立になる「殉職者之碑」

田辺自身も工事完成後、すぐそば、インクラインを見下ろす場所に工事で亡くなった人のための碑を立てている。

疎水工事殉職者の碑

田辺朔郎が自費で建立した、殉職者慰霊の碑。インクラインの上から疎水の行く末を眺めている

この大きなパイプは疏水から西に約八㎞先の山ノ内浄水場までの導水管。直径は百六十五㎝。

導水管

導水管の一部が展示されている。小柄な女性なら立って歩ける程の太さがある

疏水の水はその他、蹴上、新山科、松ヶ崎に送られ、今も京都市民の大切な水を供給している。給水開始当時の京都市人口は約五十万人で,このうち給水人口は約四万人,一日の最大給水量は約三万㎥。今日では一日最大給水量も約七十万㎥となり、現在は一日最大約九十五万㎥が給水できる能力があるという。

蹴上浄水場

蹴上の交差点から見た、蹴上浄水場の夕景。春の躑躅も市民に親しまれている

今日も琵琶湖から送られてくる、毎日約二百万㎥の水は水道用水の他,発電,疏水路維持の舟運,かんがい,防火,及び工業など多目的に利用がされている。そして実用だけでなく、当時最新の技術を取り入れた疏水も今では、すっかり京都の風土に溶け込んで、インクラインを始めとして、南禅寺水路閣、疏水分線沿いの哲学の道、山科疏水,岡崎周辺の多くの池水庭園など京都の風光を彩っている。
まさに「百年の大業」とは琵琶湖疏水のような事業をいうのであろう。

水路閣

南禅寺境内の水路閣。いまではすっかり、境内の風景に溶け込んでいる

公園の西側に少し降りると、インクラインにでる。今も鉄路が残り、そこを南禅寺船溜りまで散策することができる。

現在のインクライン跡から南禅寺船溜りを見る

途中には先ほど紹介した鉄骨製の船台とそこに乗る木造の小舟がもう一セット保存されている。

インクラインの舟台

蹴上の船溜りのものと同じもの。インクラインの中程の線路上に保存されている

インクライン2

ジオラマに再現されている、台車と荷物を積んだ船の様子(琵琶湖疏水記念館)

両側には桜が植えられ、春の満開の季節に多くの人が訪れるが、疏水のもたらした、いや、いまももたらしている恩恵に気づく人がすくないのは残念なことである。
インクラインの先は南禅寺船溜り。巨大な噴水が時に虹を作っている。この船溜りには疏水本線や蹴上発電所を経た水と白川の流れが一旦、合流する。
その東側に「琵琶湖疏水記念館」がある(平成十九年経済産業省選定、『近代産業遺産』)。琵琶湖疏水の計画から現在までを、様々な資料や模型、そして実物保存の展示物で見ることができる。入場無料なのも嬉しい。平安神宮や南禅寺まで来られた折にはぜひ、立ち寄ることをおすすめする。

琵琶湖疏水記念館

南禅寺船溜り。ここで疎水と白川が一旦合流する。その東側に琵琶湖疏水記念館がある

ここからが鴨東運河と呼ばれる部分で、平安神宮の大鳥居の前を通り、夷川ダムに至る。

鴨東運河の春

鴨東運河の春。桜の下をこの期間だけ、南禅寺船溜りから夷川ダムまで、観光船が運行される

夷川発電所(三〇〇kW)も現在も無人発電所として稼働している。このダムは以前、まだ琵琶湖の水質が良かった頃は市民のプールとして利用されていた。京都育ちの友人は子どもの頃、ここで泳いだ記憶あるという。
このダムの西側に、琵琶湖疏水のもう一人の立役者、北垣国道の銅像がいまも、琵琶湖疏水を静かに眺めている。

北垣はその後北海道長官となり、娘婿の田辺と再び函館本線などの鉄道建設を手がけた

東山三十六峰からは大分離れてしまったが、東山の裾を潤す、疏水の流れと峰々の切っても切れない繋がりをご理解いただけたであろうか。
※琵琶湖疏水については別コンテンツとして「琵琶湖疏水を歩く」のアップを予定している。

次の登る山は祇園祭の古式神事を伝える、粟田神社(旧感神院新宮)のある第二十峰「粟田山(あわたやま)」である。

村井一角
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