遊民悠民(ゆうみんゆうみん)

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ありとあらゆる情報が溢れるいま、役に立つ情報が見つけにくい。
20代から60代までの「遊民悠民」メンバーが、「遊ぶ」「暮らす」「食べる」をテーマに
さまざまなモノを比較し、レポートしていきます。

あそぶ

有縁の寺々 第十三峰 紫雲山 (その二)

―有縁の寺々 第十三峰 紫雲山(その一)から続く―

仏と女人の縁(えにし)を結ぶ、美しい寺

金戒光明寺の北門から百メートルも歩かないうちに、もう一つの有縁の寺、「真如堂」の参道が右手に見えてくる。左側を見るとそのまま、吉田山の宗忠神社の石段へ続く。吉田山と紫雲山は合わせて「神楽岡=神々(仏も含む)がおられる清らかな地」として崇められてきた。「真如堂」は、正式には鈴聲山(れいしょうざん)真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)というが「鈴聲」とは「神々が舞われる時の鈴の音がする」ということから来ている。だから、真如堂の山門には神馬の蹄を痛めないようにと、けたの敷居がない。そういう目でみれば金戒光明寺の高麗門も「鳥居」を思わせるフォルムである(こちらも馬が通れるようになっているが同じ馬でも軍馬である)。

真如堂山門から吉田山方向を見る

真如堂山門から吉田山の宗忠神社の参道までは一直線

人々は「神と仏」を分けて崇めてきたわけではない。
明治以前は神も仏も同じ信仰の対象であり、時の明治政府が自分たちの政治思想のための廃仏毀釈を強行し、太平洋戦争後は進駐軍が神道を排除したため、今のような形になったに過ぎない。戦後の教育では仏教と同じように我が国の文化に深い関わりを持つ神道を排除し、仏と神の関係を「神仏習合」というようないかにも胡散臭い名前で片付けてきた。日本人は「神も仏も」同じように信じてきた歴史に思いを致す必要があろう。

吒枳尼天(だきにてん)

境内にある吒枳尼天(だきにてん)。インドのダーキニー=インド・ヒンドゥーの神様。お稲荷さんの原型とも。

参道から山門へのアプローチは素晴らしい。幅は広くゆったりとして、穏やかな傾斜の石段を新緑のもみじが覆う。門前には「天台宗 真正極楽寺 真如堂」の堂々とした石標が立つ。現在は天台宗だが元は浄土宗。念仏の寺であった。

真如堂参道

真如堂の境内入り口から「赤門」、「本堂」に続くなだらかなアプローチ。

真如堂(真正極楽寺)は今から、約一千年前の永観二年(九八四)、比叡山の戒算(かいさん)上人が、比叡山常行堂のご本尊阿弥陀如来(慈覚大師作)を東三條女院(藤原詮子。円融天皇の女御・一條天皇の御母)の離宮があった現在の地に移して安置したが、その後は各地を転々とし、一六九三年、東山天皇により元の地に再建された。真如堂は本来、真正極楽寺の本堂のこと。ただ、タクシーで「真正極楽寺」といっても通じない。

真如堂入り口石碑

真如堂総門脇の寺名碑。さすが「紅葉の真如堂」、姿の美しいもみじが多い

門を過ぎてさらの気持ちの良い参道を上がると、左手に端正な三重塔が見えてくる。文化十四年(一八一七)に再建。木々に囲まれて立つその姿は美しい。三重塔は幅と高さのバランスが良い。五重塔になると高くなりすぎ、やや不安定なフォルムになる。仏徳の偉大さを表すにはいいのかもしれないが、祈りの対象としては三重塔がふさわしい気がする。

三重塔

装飾を抑えた姿が古い塔の面影を残している。本瓦葺、高さは約三十メートル

参道を上がりきると、十五間四面の大きな本堂、真如堂がどっしりと構えている。何度か移転、焼失の後、現在のお堂は宝永二年(一七〇五) に再建されたもの。本尊は阿弥陀如来立像(伝慈覚大師作)、長野の善光寺、嵯峨野清涼寺とともに「日本三如来」の一つ。「女人をお救いください」という慈覚大師に頷かれ、以来「うなずきの弥陀」と呼ばれている。何時の時代も女性に人気がないと栄えることはない。

真如堂本堂

元々はこの本堂が「真如堂」。優しい姿が女人救済の寺にふさわしい

本堂の周りには多くのもみじが植えられ「紅葉の真如堂」として、その季節は大変な人出となる。この季節(晩春)は、訪れる人は少ないが、その木々の青もみじに身が染まるような静かな時を味あうことができる。本堂から「涅槃の庭」「随縁の庭」へ回ってみよう(有料)。

真如堂境内

静かな青もみじの境内。紅葉のシーズンは人であふれかえる

「涅槃(ねはん)の庭」と称されるこの枯山水の庭は昭和六十三年(一九八八)に曾根三郎氏によって作庭された。東山三十六峰を借景に向かって左を頭にしたお釈迦様が右脇を下にして横たわり、その横を弟子や生類たちが囲んで嘆き悲しんでいる様子が石によって表現されている。

「随縁の庭」は境内の石材を再利用した、モダンで、幾何学的な顔を持つ。本坊書院に面した約八十平方メートルの庭園で、重森三玲を祖父に持つ作庭家重森千靑(ひさお)が三井家の持仏堂のために設計したもの。ただ、祖父の三玲とはかなり作風は違う。地表に設けた仕切りには、境内の玉垣や墓所で使わなくなった縁石を用い、配置した自然石も敷地内にあった普通の石を再利用している。

ちなみに真如堂は三井家を始め、多くの旧家、名家を檀家に持つ。堂内の荘厳の多くに三井家が奉納した印として井桁に三の紋が見られる。入山料もとらず、境内が常に美しく整えられているのは、こうした豊かな檀家に支えられているためであろう。

本堂を出て、右にゆくと、あまり目立たないが、木立の中に映画撮影カメラをイメージした「京都 映画誕生の碑」がある。一九〇八年、牧野省三が日本最初の映画「本能寺合戦」が真如堂をロケ地として撮影され、その百周年を記念して建てられたもの。映画は一八九五年にフランスで発明され、一八九七年には京都で初めて上映されている。映画ファンなら訪ねてみてはいかがだろうか。

京都 映画誕生の碑

ユニークな映画キャメラををかたどった「京都 映画誕生の碑」

本堂や三重塔のほかにも元三大師堂、開山堂など、多くの建物がある。八月の大文字の送り火の日には、本堂の前で灯籠による、大文字供養が行われる。また、十月の「引声法要」、紅葉の中で行われる、十一月五日からの「お十夜」など人々と縁を結ぶ行事も多い。

大文字灯籠供養

八月十六日の大文字送り火と同じ日、境内で行われる「大文字灯籠供養」

山門に戻り、境内を出て右回りで住宅街の迫る細い道をくだると白川通へ。この途中からは大文字山を始め、東山の山々を間近に見ることができる場所がある。白川通に下りてみると真如堂の東側は崖になっている。この辺りが紫雲山の東端であろう。

真如堂からみた大文字山

真如堂の東側からみた大文字山。この下は白川通への崖となっている

紫雲山は南西が開けており、いまでも遠く西山の方を眺める事ができ、ことのほか夕日の美しい地である。この山に金戒光明寺や真如堂が建てられた平安末期以降、夕日を眺めて西方浄土を思い描く修行「日想観」が広まり、仏縁を求めて多くの人々が訪れたのであろう。

金戒光明寺の夕景

金戒光明寺の夕景。紫雲山は西方浄土を想わせる、夕日の美しい山として知られる

次に登るのは、「京のお伊勢さん」日向大神宮と、疎水ゆかりの、第十九峰「神明山」である。

村井一角
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