遊民悠民(ゆうみんゆうみん)

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ありとあらゆる情報が溢れるいま、役に立つ情報が見つけにくい。
20代から60代までの「遊民悠民」メンバーが、「遊ぶ」「暮らす」「食べる」をテーマに
さまざまなモノを比較し、レポートしていきます。

あそぶ

有縁の寺々 第十三峰 紫雲山 (その一)

美しい夕陽に、西方浄土を想う

この紫雲山と第十二峰吉田山は東山の連なりから白川通(花折断層)を隔てて独立している。

二つの山は連なっており、吉田山と紫雲山をまとめて「神楽岡」、また西の「双ガ丘」に対して「東双ガ丘」と呼ばれることもある。吉田山(一〇三メートル)よりさらに低く、約九十七メートル。山域の多くは「金戒光明寺」と「真如堂」の寺地が占める。

紫雲山

マンションの屋上から見た紫雲山。右端(西)が修復中の山門。左端(東)は崖となっている

街中の小丘陵のため、住宅も立ち並び、「山」という印象は薄い。しかし、鎌倉時代から念仏の岡として、都の人々に親しまれてきた場所である。吉田山が神々の鎮まる山に対して紫雲山は極楽往生を願う山である。

紫雲山位置

吉田山、紫雲山は大文字山のちょうど西側にある、小高い岡(神楽岡)である

市街地に囲まれているため、登り口はいろいろあるが、一番わかりやすい道筋をゆくことにしよう。丸太町通を東に、鴨川を越え、平安神宮の裏手をゆくと、三条広道との交差点にでる。そこを北に少し行くと突き当たり。右に(東)折れると、すぐに金戒光明寺の高麗門が見える。その横には大きな「くろ谷」の石標。京都では「金戒光明寺」とういうより「黒谷」のほうが通りがよい。親しみをこめて「黒谷さん」と呼ぶ人も多い。

金戒光明寺 高麗門

金戒光明寺 高麗門。西に向かって立つ。

「山」なのに「谷」と呼ばれる理由は、法然上人(源空)が承安五年(一一七五)、比叡山の黒谷を下り、この地に草庵を結びんだ由縁による。最初はこちらが「新黒谷」、叡山が「黒谷」であったが、いつしかこの地が「黒谷」にになり、叡山の方は「旧黒谷」となった。

「くろ谷」石標

高麗門脇に立つ、大きな「くろ谷」石標

法然上人が念仏の教えを広めるために、山頂の石の上で念仏を唱えると、全山に紫雲がみなぎり、光明があたりを照らした。そしてその草庵は「紫雲山 光明寺」となり、この山が「紫雲山」と呼ばれることになる。それまでは「中山(なかやま)」とよばれていたらしい。境内にはその時の石が「紫雲石」としてお堂に祀られている(今の山頂ではないが)。

高麗門の両脇には「大本山 金戒光明寺」と「京都守護職本陣舊跡」の二枚看板が掲げられている。「大本山 金戒光明寺」はその名の通り、知恩院、知恩寺清浄華院とともに浄土宗四大本山の一つである。元は光明寺であったが江戸時代に後光厳天皇から「金戒」の二文字を賜り、現在の「金戒光明寺」となった。

左側の「京都守護職本陣舊跡」は幕末の文久二年(一八六二)、会津藩松平容保が京都守護職となり、家臣一千名をひきいてこの金戒光明寺を本陣としたことによる。さらに近藤勇新選組が松平容保の配下として加わり、この寺が維新の旧跡として広く知られるようになった。会津藩は禁門の変で幕府側として戦い、異郷の地、京都で多くの戦死者を出した。その人たちを弔うための会津藩墓地が境内にあり、今も毎年、関係者により法要が営まれている。

門から見える前方の山は紫雲山ではなく、白川通を越えて東山連邦の「椿ヶ峰」辺り。門をくぐってさらに東に。左に山門が見えてくる。この山門、ちょうど我が家のベランダからほぼ真北に見える。万延元年(一八六〇)の再建。そのため安永九年(一七八〇)に刊行された都名所図会」にこの山門は描かれていない。

都名所図会 くろ谷

都名所図会に紹介されている「金戒光明寺」。山門はまだ再建されていない(クリックで拡大します)

楼上には後小松天皇の宸筆になる「浄土真宗最初門」の額が掲げられている。これは「浄土真宗」という宗派を表すものではなく、法然上人が最初に浄土教を広めた念仏行発祥の地という意味である。ただ、現在は山門大修復のため仮屋根に覆われてその姿を見ることはできない。

金戒光明寺の修復中の山門

修復中の山門。南面して立つ

本来ならこの山門を通り、御影堂、本堂へと進むべきだが、今回は紫雲山を目指しているので、山門を通り過ぎ、その先を左にすすむ。すると蓮池があり、そこに「極楽橋」という石橋がかかっている。橋を渡ると、その先の急な石段の先に三重塔が現れる。「文殊の塔」と言われる三重塔である。

極楽橋から見た、文殊塔

極楽橋から見た、文殊塔。蓮池は熊谷直実「鎧洗いの池」といい伝えられている

かつてこの寺の北西の中山宝幢寺(ほうどうじ)の本尊であった中山文殊が江戸時代初期徳川秀忠公菩提の為に寛永十年(一六三三)建立されたこの三重塔に安置された。貞享三年(一六八六)刊の『雍州府誌』には「本朝三文殊の一つなり」とあり、古来より奈良の「安倍の文殊」天橋立の「切戸の文殊」と共に信仰を集めていた。運慶作と伝えられる、文殊菩薩と脇侍の尊像は、現在は山中の塔から、御影堂に遷座されている。

文殊塔

寛永十年(一六三三)建立の文殊塔。徳川秀忠追悼のために建てられた

急な石段を上がりきったところにあるこの三重塔が紫雲山の頂上とされている。細かいことを言えば、塔の裏手にある「清和天皇火葬塚」(この区域のみ宮内庁管理。清和天皇陵は右京区嵯峨の水尾の山の中腹にある)のほうが少し高い。ここが頂上といえば頂上である。

清和天皇火葬塚

山頂にある清和天皇火葬塚。御陵となっているが、周囲は数十メートほどしかない

このあたりからは南西の方向に京の街並みを望むことができる。

文殊塔からの眺め

文殊塔からの眺め(西南方向)。右の大きなビルがホテルオークラ京都(旧京都ホテル)

周りは無数の墓石に囲まれた墓地である。さすがに長い年月を経て、新造の墓地とは全く異なる趣を感じる。この日は曇天で風もあり、木々のざわめきももの凄く、少し気味悪い感じもした。

八橋検校の墓

八橋検校の墓にある碑文。琴の形をした銘菓「八つ橋」はこのお墓に参る人のおみやげがその由来

登頂を果たして、石段を降りる。その途中に「会津藩殉難者墓地」「しうん石」の石碑がある。そこを右に曲がって少しゆくと東側に「会津藩殉難者墓地」の入り口がある。そこには、

会津藩戦死者墓地

会津藩殉難者墓地の入り口。人影はないが綺麗に手入れされている

「文久二年~慶応三年の五年間に亡くなられた二百三十七霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者百十五霊を祀る慰霊碑(明治四十年三月建立)がある。墓地には武士のみではなく、使役で仕えたと思われる苗字のない者も、婦人も同様に祀られている。会津松平家が神道であった関係で七割ほどの人々が神霊として葬られている」(当寺HPより)。

禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者の墓

禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に祀られている

近年、さらに立派な御影石の記念碑が立ったが、苔むす「會津」と刻まれた墓石からは故郷を遠く離れて無念の最後を遂げた武士の思いが感じられる。

会津藩藩士の墓

苔むす会津藩藩士の墓

会津藩墓地を出て、右手に無縁となって無造作に積み上げられた墓石

無縁墓

無縁となった墓であろう、参道脇にひっそりと積み上げられていた

参道をさらに少しゆくと、子院「西雲院」の小さな門がある。くぐると、右側に端正な小堂があり、その中に「紫雲石」が祀られている。

紫雲石を祀る小堂

西雲院にあるお堂。中に山名の由来となった紫雲石が祀られている

紫雲石

法然上人がこの石の上で念仏を唱えると紫の雲が湧き上がったと伝えられている

院の庭にはシャクナゲが咲いていた。そのまま、北にゆけば真如堂に達するが、一旦、極楽橋まで戻り、青もみじの下を御影堂の前に至る。

御影堂の右手には有名な「直実鎧掛けの松」がある。平安時代末期の武将熊谷直実が源平合戦の折、若年の平敦盛を討ち取り、そのことで人生の無常を感じて、法然上人の弟子に。直実は出家して法力房蓮生となり、着ていた鎧を洗い、この松に掛けたと言われている。

「熊谷直実 鎧かけの松」

「熊谷直実 鎧かけの松」もとの松は枯れたが、それを引き継いだ二代目。平成15年に京都市指定保存樹

現在、修復中の山門から御影堂に上がる広い石段は、格好のロケ地として多くの映画の舞台となってきた。

本堂前の石段。近くの子供たちの格好の遊び場ともなっている

御影堂の左手を北に進むと、西側の斜面に子院がつらなり、東側は丘に向かって墓所が広がる。紫雲山つまり黒谷の岡は東の崖が険しく、西の傾斜に本坊から山内寺院、墓までが整然と建ちならぶ。一万基をこえると言われる墓碑の多くは西向きに建つ。この辺りからは南西の方向に眺望が開け、子院西翁院藤村庸軒作の茶室「澱看の席」からは伏見、淀までの遠望できるという。

京都タワー

紫雲山は南西が開けている。平安神宮、京都タワー、後方に霞む山は天王山である

途中にある、子院「栄摂院(えいしょういん)」も紅葉の美しい塔頭である。庭の林に阿弥陀如来があり、紅葉の季節には彩りの中に仏像を見ることができる。塔頭が並ぶ小径をゆくと北門にでる。

栄摂院の阿弥陀如来

阿弥陀如来が鎮座される、栄摂院の紅葉の庭

「有縁の寺々 第十三峰 紫雲山 (その二)」へ続く

村井一角
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