2012年11月12日
今回、登る山は、第二十峰「粟田山」。
比叡山から続く東山三十六峰は第十九峰の神明山で一旦途切れる。そこから蹴上を隔てて、地図のように粟田山、華頂山、円山…と続き、稲荷山で終わる。粟田山は蹴上付近からウェスティン都ホテル、仏光寺旧地の背後(南)に大きく見える山。ここから尾根伝いに洛中、京都の中心部を眼下に望む身近な峰々を歩くことができる。
粟田山へは三条通り(旧東海道)の粟田神社のところからの登ることに。地下鉄東西線の「東山」駅でから三条通り南側の歩道を蹴上方面へ。すぐ、白川の橋を渡る。東詰め南側には京都で最も古い「道標(みちしるべ)」とされる「三条通白川橋道標」と呼ばれる石標が立っている。
平成にはいって車が衝突、折れたものを継いだ痛々しい姿ではあるけれど。東側の面には「是ひ多゛(だ)り ち於んゐん ぎおん きよ水みち)とあり、右側に「延宝六戊午三月吉日…」とある。
延宝六年(一六七八)といえば、今から三百年以上前、徳川第4代将軍・家綱の時代。そんな石碑がほぼ、放置されている所が京都の京都たる所以か。
その道標を過ぎて少しゆくと神宮道と交差する。左(北)を見れば平安神宮の赤い大鳥居、右(北)を見れば青連院の巨大なくすの木を望むことができる。京都の中でも観光客の多い辺りでもある。
さらに進むと、旧白川小学校の隣に粟田神社への参道口が見えてくる。
この粟田神社がある一帯は奈良時代以前から開けた地で、孝昭天皇の分かれである粟田氏が本拠とし「粟田郷」と呼ばれていた。
古くから軍事・交通の要地であり、承平年間(九三一~九三八年)に編纂されたとされる「和名類聚抄」に山城国愛宕郡などとともに上粟田郷・下粟田郷として表記されている。
その後、万寿年間(一〇二四から一〇二八年)ぐらいには京中から東海道・東山道への出口として「粟田口」という地名が定着していたようだ。江戸時代には「京都七口」の一つとして、東海道、東山道への玄関口ということで賑わった。
また、平安末期以来この辺りに短刀作りの名工、粟田口吉光らが住み、多くの名刀を残している。
加えて「粟田焼」と呼ばれる陶器の産地であった。
今は三条通の鳥居をくぐると、すぐ右手に「粟田焼発祥之地」の碑が立つばかりだが、江戸初期からこの地で陶器が焼かれ始め、仁清、保全もこの地で修行をしたといわれている。すぐ裏手にある青蓮院門跡の御用窯としても栄えた。
第二次大戦後、間もなく衰微し、今では窯址も見られない。詳しくは以下の「粟田焼を訪ねて」をご参照いただきたい。
HP「粟田焼を訪ねて」http://www.awatayaki.com/
一の鳥居から粟田神社のまでの小径はなかなか風情がある。石畳に沿って民家が並ぶばかりだが、ちょっとタイムスリップしたような気がする景観である。
小径を出ると細い東西の通りにでる。この道が旧東海道、というガイドブックもあるようだが、それは間違い。(粟田神社のHPにもそのように書かれているが)旧東海道は現三条通りである。ただ、仏光寺旧地から良恩寺、粟田神社参道口に続く道は、三条通りよりずっと旧東海道の面影を残しているのは確かである。
道を隔てて二の鳥居から急な石段の参道が粟田山に向かって伸びている。両側から木々が鬱蒼と生い茂り、秋には紅葉のトンネルとなる。
二の鳥居にかかる額は粟田神社ではなく「感神院新宮」と記されている。これは旧社名が、感神院新宮(カンジンインシングウ)、または粟田天王社と称されていたためで、明治の神仏分離令によりに粟田神社と改称されている。古来、粟田の地の氏神である。ちなみに新参者ではあるが我が家も粟田神社の氏子である。
創建は平安時代に遡る。
『清和天皇貞観十八(八七六)年春に神祇官並びに陰陽寮より「この年隣境に兵災ありて、秋には疫病多いに民を悩ます」と天皇に奏上されました。
そこで直ちに勅が発せられ、全国の諸神に御供えをして国家と民の安全を祈願されました。その際、従五位上出羽守藤原興世は勅使として感神院祇園社(今の八坂神社)に七日七晩丹精を込めて祈願されました。
その満願の夜、興世の枕元に一人の老翁が立ち、「汝すぐ天皇に伝えよ。叡慮を痛められること天に通じたる。我を祀れば、必ず国家と民は安全なり。」と告げられました。
興世が「このように云われる神は、如何なる神ですか?」と尋ねられると、老翁は「我は大己貴神なり。祇園の東北に清き処あり。其の地は昔、牛頭天王(ゴズテンノウ=スサノオノミコト)に縁ある地である。其処に我を祀れ。」と言われて消えられました。
興世は夢とは思わず神意なりと朝廷に奏上し、勅命により直ちに此の地に社を建てて御神霊をお祀りしました』(粟田神社HPより)
粟田神社の祭礼は「出御祭(おいでまつり)」「夜渡り神事」、「神幸祭(しんこうさい)」「還幸祭(かんこうさい)」、そして「例大祭(れいたいさい)」までの神事・行事を総称して『粟田祭(粟田神社大祭)』からなり、千年以上の歴史をもつ。
室町時代には祇園祭が齋行できなかった時には、当社の祭りを以て代わりとしたと伝えられている。
中でも「神幸祭(しんこうさい)」の剣鉾は祭礼の神輿渡御の先導を勤め、神様のお渡りになる道筋を祓い清め、悪霊を鎮める祭具。剣先は真鍮の鋼で造られ、額には御神号や神社名・年号などが記されている。
また、「夜渡り神事」に『粟田大燈呂』が復興している。この大燈呂とは文字通り大きな灯篭の山車のこと。その昔、戦国の世に公卿の山科言継卿が書き留めた日記にもそのことが綴られおり、青森のねぶたよりずっと古くから行われていたようだ。
参道をあがりきるとそう広くない境内にでる。境内の北側からは平安神宮を始めとした岡崎地区が一望できる。
境内には多くの末社、摂社がある。その内のひとつ、北向稲荷神社。
その東側に粟田山に登る道がある。地図にもそれが記されているが、現在は扉に施錠されており、ここからは登ることができない。
この稲荷社は祭神が雪丸稲荷他三座で、雪丸稲荷は三条小鍛冶宗近(平安末期の名刀匠)が一条院の勅命により剣を打つ際に相槌を打った稲荷と云われている
宗近は御百稲荷(現在は都ホテル内)に詣でて祈り、その稲荷の神霊に相槌を打って頂いて剣を打ち上げた。
その話は謡曲「小鍛治」の典拠として知られる。
ちなみにその相槌を打った稲荷は三条通りを挟んで「相槌稲荷」として祀られている。
『洛中を望む山を歩く 第二十峰 粟田山(その二)』へ続く