2012年12月15日
日頃、住まいのすぐ近くに「インクライン」や蹴上の発電所、鴨東運河と疏水が身近にありすぎて、とくに意識をすることがなかったが「東山三十六峰」の「神明山」を書くために琵琶湖疏水のことを調べてゆくうち、この疏水事業の偉大さを改めて知ることになった。
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琵琶湖疏水とは
滋賀県大津市から京都市まで、琵琶湖の水を引くために明治時代に作られた運河である。
明治2年(1869)に首都が東京に遷都され、京都は産業も人口も急激に衰退していた。それを復興させ、産業の振興を計るため、琵琶湖から京都まで水路(疏水)を開くことが計画された。
主唱者は当時の京都府知事、北垣国道。琵琶湖と京都の高低差を利用して水を引き、灌漑、舟運、動力、防火のため役立てようというものであった。
しかし、途中には長等山や東山があり、その下をトンネルで通す必要があった。
当時、まだ我が国の土木技術は幼く、長いトンネルや微妙な高低差を保つ運河を築くことができるか、実現が危ぶまれた。
建設に掛る費用も、当時の京都府の年間予算の約2倍という膨大なものであった。
しかし、北垣知事、そして若くして工事責任者として抜擢された、田邊朔郎や多くの技術者、政治家、京都市民の努力により、明治18年(1885)着工、明治23年(1890)に鴨川東岸までの11.1 Kmが完成。疏水分線とよばれる北への枝線8.4 Kmも明治20年(1887)着工、本線と同じ明治23年(1890)に、鴨川から伏見までの8.9 Kmは明治25年(1892)着工、明治27年(1894)に完成している。
計画当時、動力としての利用は水車が考えられていたが、米国を視察した田邉の意見で水力発電に切り替え、その結果、世界で二番目の商業水力発電(蹴上発電所)が実現した。
この電力が日本初の電車運行や多くの産業振興に役立った。舟運では閘門やインクラインを設けて高低差を克服し、多くの舟による人や物資の運搬が可能となった。
時を経て京都市の人口も増大し、量的、質的にも飲料水の不足が課題となり、その確保のためにもうひとつの疏水を建設することになった。
これ以後、先の疏水を「第一疏水」、明治41年に完成した2本目の疏水を「第二疏水」と呼ばれることになる。第二疏水は飲料水の確保が主目的のため、水質確保の面から全線鉄筋コンクリートのトンネル水路となった。その後も、琵琶湖の水位低下に対応して第二疏水連絡トンネル(平成11年竣工)などが建設されている。
現在も、明治に完成した疏水により、琵琶湖から送られる水は毎日約200万立方メートルにおよぶ。その用途は水道用水の他、発電、灌漑、防火、及び工業など多目的にわたっている。
中でも水道用水の役割は重要で、147万人に給水する市民の貴重な水道水源となっている。
このように100年以上前に作られた施設が現在も重要な役割を果たしながら、南禅寺の水路閣、哲学の道など京都の風景になっていることから産業遺産として世界遺産登録も検討されている。
経済産業書認定「近代化産業遺産」、文化庁定義「近代化遺産」。
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この辺り(蹴上)は疏水全体からみれば、ちょうど中程、疏水の重要な施設があるところにあたる。南禅寺船溜りの東側には平成元年の琵琶湖疏竣工100週年を記念して開館した「琵琶湖疏水記念館」もある。
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そこで、一度、始まりに当たる疏水の取水口、大津の三保ヶ崎からつぶさに疏水を見てみたいと思った。
地図を見ると蹴上から10Kmくらい。これなら歩けるのでは、とネットで検索してみると多くのハイカーが「疏水ウォーク」を楽しんでおられる。
コースの案内、途中の見所なども詳しく紹介されており、これをガイドにすれば歩き通せると判断。私なりの「疏水ウォーク」にチャレンジすることにした。
コースは京都の方から歩くより、大津から流れに沿って歩いて来るほうが自然に感じられたので、蹴上から地下鉄東西線、京阪京津線で浜大津まで電車でゆき、疏水の取水口のある、大津市三保ヶ崎から「疏水ウォーク」を歩き始めることにした。
「疏水ウォーク」は第一疏水の流れに沿って歩くことになる。第一疎水の総延長は約20 Km、そのうち南禅寺からの分線が約8.4 Kmあるので今回歩く距離は迂回も含め10 Kmくらい。
浜大津から国道161号線に沿って進むと、新三保ヶ崎橋に出る。そこの先が第一疏水の取水口。南西の方向に戻ると「第一疏水揚水機場」が見える。
琵琶湖の水位が低下した時の揚水ポンプ場。更に水路に沿って進むと、大津絵橋、三保ヶ崎橋を過ぎて京阪坂本線三井寺駅の踏切を渡る。次は「北国橋」。流れは橋の下流側で2つに別れ、一方は舟運のための「大津閘門」になっている。昭和20年代後半までここで乗り入れた舟の水位を調節していた。日本最古の洋式閘門。
北国橋からさらに疎水沿い進むと「鹿関橋」が架かる。ここからの第一トンネルまでの直線水路の眺めは春の桜、秋の紅葉ともに美しい。道は晩鐘で有名な三井寺(園城寺)の観音堂に突き当たる。
ここから疎水の流れは第一トンネルへと入る。全長2436メートル、完成当時、わが国最長のトンネルであった。
トンネル入り口の扁額は伊藤博文の「気象萬千(きしょうばんせん)」(千変万化する氣象と風景の変化はすばらしい)。
ちなみに疎水のトンネルの出入口にはそれぞれ明治の元勲たちの揮毫による篆書扁額が掲げられており、入り口は「陰刻」出口は「陽刻」になっている。
ここからいったん、疎水と別れて歩くことになる。左に折れて、長等神社の横を通り、長等山の「小関越」を目指す。
小関越は古くより、近江から京都へ抜ける東海道の裏道として利用されていた。
名前の「小関」は本筋、東海道の有名な「逢坂関」を「大関」として、それに対して脇筋の関所ということから「小関」とつけられたものらしい。
住宅街を抜けて、右手の坂道を上がる。最初、少し道は細いが、その内に広くなる。現在は先で西大津バイパスにつながるため結構、交通量は多い。
汗を書きながら急な坂道を登ってゆくと、峠の頂上に祠がある。「喜一堂」という地蔵堂。由来を読みながらひと休み。
少し下ってゆくと「小関越えの道分岐点」の案内板があり、道が二手に分かれる。右は車道で西大津バイパスへ。左の狭い道が琵琶湖疎水に出る道である。
琵琶湖疏水(2) -小関越から第三トンネルまで-へつづく