遊民悠民(ゆうみんゆうみん)

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ありとあらゆる情報が溢れるいま、役に立つ情報が見つけにくい。
20代から60代までの「遊民悠民」メンバーが、「遊ぶ」「暮らす」「食べる」をテーマに
さまざまなモノを比較し、レポートしていきます。

あそぶ

琵琶湖疏水(3) -蹴上から鴨東運河まで-

琵琶湖疏水(2) -小関越から疏水第三トンネルまで-から続く

第三トンネルの入口で遊歩道は終わり、住宅街を通って日ノ岡の三条通りにでる。道の東側を歩くと「旧舗石 車石」と書かれた石碑がある。よく見ると並行した二本の轍がある。

「車石」

三条通りを日ノ岡に向かって東側にる「車石」を擁壁に埋め込んだ記念碑。注意していないと見過ごしてしまう

かつて、東海道の難所だった日ノ岡から蹴上にかけての峠に轍をつけた石(車石)を敷き荷車が通りやすいようにしていた名残である。ただ、全く説明や表示もないので普通は気づくことはないだろう。道を挟んだ西側には当時の荷車を復元したものが保存されている。

車石

荷車の車輪に合わせて溝が彫られている。荷車を支える石も轍の後が見える「車石」

そのまま少し登ると、九条山の麓に二つの慰霊碑が少し離れて立つ。一つには「萬霊供養塔」、もう一つには「南無阿弥陀仏」。かつて九条山西麓に粟田口刑場があり、明智光秀もここで斬られた。
道路の東側にも祠のようなものがあり、「一万五千人の刑死者の霊を…」という卒塔婆が倒れかかっている。
峠を超えて、東山ドライブウェイの出口交差点のところを北の坂を上がってゆくと元「九条山浄水場」。

旧九条山浄水場

旧九条山貯水池

旧九条山浄水場に残る、高度貯水池の跡。現在の用途は不明

ここはかつて大日山貯水池(御所へ水を供給するための高度貯水池)だったところ。戦後、進駐軍の指示で大日山貯水池を「九条山浄水場」として改造したものだが、昭和62年に浄水場としての操業を停止。
関西日仏交流会館ヴィラ九条山のところを左折すると道が上下二手にわかれる。そこに卍と鳥居が記された道案内がある。

日向大神宮案内

シンプルでわかりやすい。鳥居は「日向大神宮」、卍は「安養寺」を指す

そこを下ってゆくと「日向大神宮」の参道にでる。右に参道を上がると神宮である(日向大神宮は「東山三十六峰に登る-粟田山」に詳しく書いているので参照をされたい。
今回はそのまま左に参道を下る。第一疏水の第三トンネル出口と第二疏水合流出口があり、第三トンネル出口には三条実美の「美哉山河(うるわしきかなさんが)」(なんと美しい山河であろう)の扁額が、掲げられている。

第一疏水と第二疏水の合流点

第一疏水と第二疏水の合流点。左が第一疏水の第三トンネル出口。右が第二疏水の出口

その扁額の上部には「SAKURO TANABE DR.ENG.ENGINEER-IN-CHIEF WORK COMMENCED AUGUST 1885 COMPLETED APRIL 1890」りてじんこうをたすく)」(自然の水を利用して,人間の仕事に役立てる)の扁額が掲げられている。
合流トンネル西口洞門の扁額は田辺朔郎自身の「藉水利資人工(すいりをかりてじんこうをたすく)」(自然の水を利用して,人間の仕事に役立てる)である。

第二疏水に掲げられた田邊朔郎の扁額

合流トンネル出口に掲げられた田邊朔郎の扁額

流れ出た水は蹴上船溜りへ。船溜りの出口に架かる「大神宮橋」からは船溜り、蹴上浄水場の取水口の向こうに明治45年に片山東熊設計で建てられたネオ・ルネッサンス風レンガ作りの「九条山ポンプ室」が見える。ポンプ室の立派な玄関は疏水に向かっている。これは大正天皇が舟で疏水に行幸された時のためのものだという

旧九条山ポンプ室

このポンプ室から大日山貯水池(後の九条山浄水場)に疏水の水を揚げ、そこから御所まで水を送った

かつてはここから、先ほどの大日山貯水池にポンプで疏水の水を組み上げ、「御所水道」とよばれる水路を通じて御所に送水していた。御所で火災が起きた時、大日山と御所の高低差を利用して紫宸殿の屋根の高さまで高圧放水するためだったという。そのほか飲料水や庭園の泉水にも利用された。

本願寺水道防火用水実験

本願寺水道による、防火訓練の様子(京都市上下水道局)

この御所水道は文化財を保護する取り組みの早い例として知られる。その後、東本願寺にも防火用水として、本願寺水道が引かれた。今では御所の用水はポンプによる地下水利用となり、御所水道はすでに発泡モルタルで閉塞されている。東本願寺水道も通じてはいるが利用されていない(防火用水は一般の水道を利用)。

蹴上浄水場取水口

蹴上浄水場取水口。第一疏水と第二疏水が合流する前に、第二疏水から取水している

ポンプ室の手前には蹴上浄水場への取水口がある。三条通りを挟んで粟田山麓にある蹴上浄水場は、日本最初の急速ろ過式の浄水場として明治45年3月に竣工。100年を経て今も1日に約10万m3の給水施設を持っている。高所配水池はいまも現役施設として使われている。

蹴上浄水場

場内は約4,600本のつつじ・さつきが植えられ、春の浄水場一般公開は多くの市民で賑わう

大神宮橋の手前すぐ下には疏水分線への取り込み口とその可動堰がある。橋を渡り、そのまま進むと三条通。橋のたもとを右に行くとかつてのインクライン(傾斜鉄道)跡の上部にでる。このインクラインは琵琶湖から下ってきた舟を蹴上船溜りから高低差約36mの南禅寺船溜りまで582mの線路で人や貨物を舟に載せたまま運ぶ施設である。

インクライン頂上

インクライン頂上部から蹴上船溜りを見る。左の鉄骨は保存されている台車

ここには稼働していた当時の十石舟を載せた状態の台車、水中にあって台車を上げ下げしていた巻揚げリングが保存されている。

インクライン滑車

インクラインの台車を上下させるのに使われた滑車。動力は蹴上発電所の電力が利用された

この辺りは「蹴上疏水公園」と呼ばれ、疏水関連の施設や記念碑、展示物が多くある。主なものは、琵琶湖疏水を設計した「田邉朔郎」像と紀功碑。疏水建設で殉職した人々の慰霊碑、山之内浄水場への導水管実物見本…余り整備されたとは言いがたい形で点在している。

田邊朔郎像

公園にある、田邊朔郎像。28歳の姿と言われている

 

電気局殉職者之碑

公園の外れにある「電気局殉職者之碑」。田邊のアメリカ視察以降、疏水の大きな目的に発電が加わった

ここから右手(山側)に行くと蹴上発電所への巨大な導水管をまたいで水路閣の上に出ることができる。

蹴上発電所導水管

蹴上発電所への導水管。現在でも4,500kWの発電が行われ、京都市の貴重な財源になっている

水藻除去装置

発電用の水から水藻を取り除く装置。台風の後など、琵琶湖から大量の水藻が流れてくる

蹴上発電所(第二期)

蹴上発電所(第二期)。壁の星型のマークは京都市電気局のもの(当初は京都市営の発電所であった)

途中に水路閣方面への流量を調節する越流堰を見ることができる。

越流堰

「ナイアガラフォール」との呼ばれている、疏水分線への越流堰

今回はそちらに行かず、左手インクライン跡のスロープを下ることに。
インクライン跡にはいまも舟を運ぶ台車用のレールがそのまま残っている。蹴上の船溜りから南禅寺船溜りまでの途中に、先ほどの台車と舟と同じものがレールの上に保存されている。

インクライン上部からの眺め

インクライン上部からの眺め。この先に台車と木製の十石船が保存されている

「ねじりまんぽ」とよばれるトンネルの上を超えて、南禅寺の交差点の橋の下をくぐる。

ねじりまんぽ

インクラインに対して、斜めにトンネルが作られているため、レンガが巻き込むように積まれている

南禅寺橋

南禅寺橋からインクラインの上部を見る。春は両側の桜のトンネルとなる

そこから先、インクラインはそのまま南禅寺船溜りに潜ってゆく。橋の先からは遊歩道を経て、琵琶湖疏水記念館に直接行くことができる。

巨大な輝き像

遊歩道の向かいには大きな坑夫のモニュメント「巨大な輝き」像がまさに金色に輝いている

琵琶湖疏水に興味を持たれたならこの琵琶湖疏水記念館に行かれることをおすすめする。「琵琶湖疏水とは」というより、「どのようにして琵琶湖疏水が作られたのか」に重点が置かれた展示内容である。

「琵琶湖疏水記念館」

鴨東運河西側から見た「琵琶湖疏水記念館」。手前は蹴上発電所からの放水口

※「琵琶湖疏水記念館」については別原稿を後日アップの予定。
少し戻ってインクラインの西側を進む。南禅寺船溜りには立派な噴水があり、高く水を吹き上げている。

南禅寺船溜りの噴水

この噴水、疏水の高低差を利用した自噴噴水であることは意外に知られていない

船溜りから鴨川の東堤防までが「鴨東運河」である。船溜りからまっすぐ西に向かい、京都会館の裏手で北に、二条通を越えて再び西に転じ、そのまま夷川ダムを経て鴨川に至る。

鴨東運河

琵琶湖疏水記念館のロビーから見た鴨東運河。右手は京都市動物園

琵琶湖疏水(4) -鴨東運河から鴨川放水路まで-へ続く

村井一角
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